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戦艦大和生存者から学ぶ

みなさんこんばんは、

戦艦大和の乗組員3332人中、生還者276人。
その中の一人、井口由行さん(85)のお話が、
くまにちコムに載っていました。





井口さんは福岡県筑後市生まれ。
中学在学中に少年兵を志願し、佐世保の海兵団に入隊後、
横須賀の通信学校を経て少年通信兵となった。


その後、佐世保に戻り、海防艦で訓練を受けた後、戦艦大和に転艦。
世界で初めて直径46センチの主砲を備えた戦艦を見上げ、感慨に浸った。

「世界最強の船に乗れる。俺も男になったんだ」


日本の敗色が濃くなり、大和にもいよいよ特攻出撃の命令が下った。
だが、井口さんらに行き先は告げられず、特攻の事実を知るよしもなかった。


1945年4月7日-。
大和が沈没するその日、通信担当の井口さんは艦内で非番。

ロッキードやカーチスなどの米軍爆撃機が大和目がけて飛来する中、
エレベーターで運ばれた弾薬を艦上で砲手に渡していたという。


「確か魚雷が3~4発当たったと思う。
 波状攻撃してくる爆撃機から米軍兵の顔が見えた」

井口さんは記憶をたぐり寄せる。
四方八方から弾が飛び交い、仲間が次々に倒れていった。
井口さんも爆弾の破片が頭の左側に刺さるなどして意識が遠のいた。

「大和もろとも死ぬのは覚悟の上だった」


大和が沈没する瞬間、意識のない井口さんは仲間に抱えられて海中へ。
「後で聞いたところによると、
 大西という人が渦に巻き込まれないよう守ってくれたそうです」

痛みで目覚めた時は、沖縄から佐世保へ戻る日本軍の船の中。
応急処置を受けていたという。


この時の負傷で、井口さんは右手右足の自由を失った。
終戦後、親戚を頼って荒尾市で酒や野菜、果物などを売る店を構え、
2年前まで営業を続けた。


「当時の日本は軍国主義で、やられっぱなしは許されないという時代だった」
と井口さん。

日本と中国、北朝鮮との緊張状態が続くいま、平和への思いを強める。

「戦争は勝っても負けてもみんなが不幸になる。二度と繰り返してはならない」
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私が改めて感じたのは、

「信念と腹決め」

です。


私の借金返済生活と比べるのは失礼ですが、
これが自分の状態を良くする為に一番大切だなと、
改めて腑に落ちました。



内容が少しでも参考になれば幸いです。
長文お読みいただき、ありがとうございました。